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 月読帝國の国教である「登用教」のご紹介。
 国教管轄/静和寺院


世界観
 
・神に雇用される人間
 
 神は多くの人材を欲している。
 その為、人間界と言う世界を作り、人間を放った。
 
 人間には人間界で様々な修行を積んでもらい、
 色々な人材に育ってもらう。
 神は欲しい人材を「雇用」する。
 
 雇用された人材は「冥府」へと誘われ、
 神の元で働く事になる。
 
 寿命まで神の欲しい人材に成らなかった場合、
 または、このまま育てても必要な人材に成らないと判断された場合、
 人間は死んで輪廻転生し、もう一度人間界で修行することになる。
 
 
・安定しない人と世界
 
 人間界は修行の場である為、人間界は決して安定しない。
 常に人間世界には悩みや問題や紛争があり楽園にはならない。
 
 同様に人間にも悩みや問題が必ずあり、
 解決しても解決しても次から次から問題が起きる。
 悩みは決して尽きることは無く、欲望も達成すればまた次の欲望が沸く。
 
 もしも、どこかの国が立派な法律を作り、安定へと向かおうとすると、
 必ずその法律の抜け穴を誰かが発見し、悪事に使って廃案となる。
 また、立派な法律の恩恵にあずかった人々は必ず堕落する。
 
 立派な宗教が現れても必ず内紛が起きたり、
 教義を曲解させて悪事を働いたりする。
 
 どう考えても正しい事を言ってるはずの国や人の言葉も、
 それが世界を安定へと向かわせるのなら、何故か却下される。
 
 その人物が居る事で、世界が安定へと向かうならば
 その人物は神の手により死を迎える。
 
 悪の栄えた例は無いが善の栄えた例も無い。
 神は世界を善悪喜苦交々の状態を保ち、
 様々な人材が生まれるようにしているのだ。
 
 
・意図して育てられる人材
 
 神はどうしても欲しい人材が居る際、
 自らの手によってその人材を育てる。
 
 欲しい人材を育てる為に、
 意図して幼年期を貧困な街に生まれさせたり、
 意図して大財閥の家に生まれさせたりと、
 意図して色々と仕掛け、
 欲しい人材になるよう仕向ける。
 
 順風満帆の生活を送る事もあったり、
 理不尽な挫折が次々と起きたりと目まぐるしい日々を送り、
 常に苦しみ、そして楽しむ。
 
 神に育てられてる当人が欲しい人材である場合が多いが、
 その息子が欲しい人材の場合もある。
 欲しい人材の父を育て、その息子をも育てる。
 
 中には百代かけて欲しい人材を育てる大プロジェクトもあるようだ。
 
 
・神の欲しい人材は予想できない
 
 神がどんな人材を欲しているかは完全に不明で、いつの時代も同じ人材を欲しているとも限らない。
 百年前は攻撃的な人材が欲しかったのに今は温厚な人材が欲しくなっているというパターンもある。
 とかく「こういう人材が欲しい」と人間が予測する事は不可能である。
 我々が「冥府」と呼ぶ「神の世界」の事情もあるだろう。
 要らなくなった人材をまた人間界へと送り返す事もあるだろう。
 世界の情勢と流れを見て「神の意図」を感じ取るのも一つの生き方かもしれない。
 
 

 
教義
 
 
・苦労という銭
 
 苦労と言うものは「物理側」で言う「銭」のようなもので、
 便宜上、「彩銭(あやぜに)」と称する。
 
 この「彩銭」は苦労すればする程、貯まって行く。
 そして「彩銭」によって様々な「精神側の物」が買える。
 
 「彩銭」で買える物は「威風」だったり「人柄」だったり、
 内面から発せられる「自信」だったりと様々である。
 
 「大彩銭持ち」になると、
 言葉一つ一つが相手を無条件に納得させたりもする。
 
 「彩銭」で買える物は本当に多いが、
 その中でも大変高価な物が八種あり、
 その八種を買い揃えて合成すると「悟る」事が出来ると言われている。
 
 
・分からぬ人材と分からぬ悟り
 
 神がどんな人材を欲しているか、
 悟れると言う八種の高価な物はなんなのか、
 
 人間には永遠に分かることは無い。
 
 神は人間には決して教えない。
 例え発見した人間が居たとしても、
 マイノリティー扱いをされて終わる。
 
 
・最終的にあるべき姿
 
 最終的に一番良い状態と言うのは、
「自分の思うがままに発言・行動をしているのにそれが全て善行」
 という状態である。
 自分自身は自分の思うがままに、つまり我儘に生きているのだからストレスは無い。
 そして、その行動全てが善行なのだから、周りの人間にも感謝される。
 これが一番良い状態なのである。
 
 例えば道端にゴミが落ちているのが許せない人間だとしよう。
 ゴミを拾い屑籠に捨てるのは完全に自分の思うがままであり、
「自分自身のやりたいようにやった行動」
 なのである。
 自分の好き勝手にやったのに周りの人間は「善行」として評価してくれる。
 
 同様に自分が言いたい事を言ったら、それが言われた人にとって為になる事になり、周りの人間も「良い事を言ってくれた」っと評価してくれるのならばなんでもストレス無しに言い放題である。
 
 自分の思うがままに発言・行動をしても良い世界。
 何と楽しい世界だろうか。
 
 世界を変えるのは難しい。
 ならば自分がそのように変わるのが一番手っ取り早い。
 
 この最終的にあるべき姿になるにはどうしたら良いか?
 それを見つける修行をして行こう。
 
 その為には「彩銭」を貯める事が一番である。
 例えば先程も触れたが道端にゴミが落ちてるとする。
 人はそれを拾い屑籠に捨てたいと思っても「何故自分がそんな労力を使ってやらねばならぬのか」と「損をした気分」になり、やらない。
 確かにその通りだ。
 皆が皆、見てみぬふりをして通過してるのに、自分ばっかり汚い物を処理すると言う損な役回りをせねばならんのか。
 そもそも、ゴミを捨てたのは自分じゃない。
 捨てた奴が拾って屑籠に入れろ。
 他人の尻拭いを何故、自分がしなけりゃならんのだ。
 これが正論である。
 
 そこをあえて苦労をして「彩銭を貯める」と言う目的で自分がやるのである。
 そこには苦労はありつつも「ゴミを拾い屑籠に捨てる」と言う「自分の思いが達成できた」と言う事も達成できる。
 
 ただ注意したいのは彩銭を積むと言っても誰かの下僕になって奴隷生活をすると言う意味では無い。(自ら望んだ下僕ならば認める範囲)
 
 最初は上記のように彩銭を貯める為と行動していると、その内自然と行動を起こせるようになる。
 彩銭の為、彩銭の為、、、っと我慢していたものが自然と行動を起こせるようになれば成功だ。
 逆にいつまでたっても「彩銭の為」が抜け切らず、また「彩銭を集める為になら何でもする」ようになったら失敗である。
 
 
・自然と行動が起こせる様になっても
 
 奉仕活動、勤労、などなどの他者からみて立派な行為を自然と振舞えるようになった時、 「愛の為」「誰かの為」「人々の為」「世の中の為」などと言う「自分を善人側」と考えるような事はしてはならない。
 
 全ての行動は「自分の修行の為」と言う利己的な行動と思うべし。
 
 もしも「世の為人の為」と思うようになってしまっては、いざ自分の身に不幸が起きた時、「自分はいつも良い事をしているのに何故?」とか「自分は報われるべきなのに何故?」と思ってしまう。
 また、他者と対峙した時「あいつは自分よりも善人ではない」とか「私のほうが良い事をしている」と思ってしまう。
 そういう驕りはいずれ身を滅ぼす。
 
 そう思わない為にも、全ての行動は「自分の修行の為にやっている」と思う事である。
 
 
・修行の大切さ
 
 あらゆる苦行(仕事、生活、そのほか面倒な事)は全て自分を高める修行であるとする。
 面倒でやりたくない事、上司からのお叱り、発生してしまったギスギスとした空気。
 自的苦痛、外的苦痛の全てを「これは修行の為」と思い、全力を持ってあたるべきである。
 
 さて。ここで繰り返し言う「修行」。何故それ程までに大切なのかと言うと『人の評価はその人の「能力」による』からである。
 精神的な面でとても好感の持てる人も評価に入るであろうが、好感があるだけで能力の無い人は結局お荷物になるのである。
 なまじっか好感が持てるので相手は好感を持てる人を擁護するであろう。
 しかし、その好感が持てる人が無能では何の役にも立たず、擁護してくれてる人に迷惑をかけるだけである。
   だから人は修行し、自分の能力を高め、その上で好感の持てる人間となるのだ。
 人の良点を精神的な物に求める人も、求めない人も先ずは「有能」になることが先である。
 
 
・美しさは常に気にかける
 
 誇りを持ち、清貧清潔誠実を保ち、紳士に生きる事も大切な要素の一つである。
 紳士たるものが苦労を重ねるから美しいのであって、卑屈に生きるのは醜態を晒すだけである。
 紳士に生きようとする行為が周りを幸せにする一つと心得る事である。
 
 清貧とあるがこれは心持の事であり進んで貧乏になれと言う訳では無い。
 富の重さや富の柵に己が心が潰れず揺らがなくなるならば富んでも構わない。
 
 

 
到達点
 
 
・登用が目的にあらず
 
 この教えの目標は「神に登用」される事では無い。
 何故ならば神がどんな人材を欲しているかが不明な上、登用されてても必要が無くなればまた人間界へ転生されるからである。
 
 この教えで行う事はまず「世界観」で触れた世界を「受け入れる」。
 そして「教義」で触れた「最終的にあるべき姿」を目指すのである。
 
 便宜的にこの「最終的にあるべき姿」を「彩世の境地(さいよのきょうち)」と名付ける。
 
 彩世の境地に至るよう修行を積むのである。
 この世が修行場所なのだから修行場は世界である。
 
 人の世で学び修行を積み「彩世の境地」に辿り着く。
 それこそがこの教えにおける到達点である。
 
 

 
 現世 是即 修行場 也
 
 

※精霊との協定前に設立した教えの為、教えの中に寿命前の死が存在する。
 静和寺院は
「精霊が寿命まで生かして置くのも神がそういう人材を欲するようになったからである」
 と付け加えている。

※第二十四研究室 「私が宗教を作るなら?」より抜粋 / 管理人 芹沢明氏より抜粋転載許可取得済
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※第二十四研究室 「■登用教」より / 管理人 芹沢明氏より抜粋転載許可取得済
 
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